日本の罪の悔い改め
2013 4/21
1. 聖徳太子時代以前:
未だ証明されたわけではないが、状況証拠はたくさん存在する。日本は明らかに 秦人の影響を受け、ユダヤ教、キリスト教文化(=原始キリスト教と 景教の一部)を、日本文化の最も古い部分に持つことになった。日本人の目から見て、「キリスト教」とは、西洋の宗教、アメリカの宗教、あるいは、カトリック、というイメージが強いが、実は、中東という”アジアの宗教”だった。
中国に流行した「景教(ネストリウス派)」も、アジアでは、アジアらしい礼拝形態(現在の仏教のように木魚のようなもので伴奏する)をとっていた。
天皇家は多くの秦人の協力を得たので、天皇家自身がユダヤ文化の影響を最も受けているはずである。(ただし、DNAについては、まだ証拠が表われていない)
しかし、その後の仏教・儒教の伝来により、残されている文献はすべて藤原氏によって書き換えられたものであり、聖徳太子こと 厩戸皇子(うまやどのおうじ)は、ペルシャ系渡来人のおそらく景教徒だった。(2015 4/30追加: → 聖徳太子の謎)
現在、日本の文化の一部としてユダヤ教的な片鱗は残るが、他はすべて 仏教・神道、あるいは儒教に改ざんされてしまったという可能性が大きい。
→ 日本の歴史から見たリバイバルの展望 初期の天皇の系譜について
2. キリシタン時代:
次に大きな波としてやってきたのは、フランシスコ・ザビエル(シャビエル)等によるローマ・カトリックの伝来である。
ヨーロッパでは、14世紀半ばのペストの大流行により、カトリックの権威は失墜し、ヤン・スフやウイクリフが現れ、後に、ルター、カルヴァンなどの宗教改革者たちがプロテスタントと呼ばれる一大教派を作り上げることになる。 そのためこの時期は、”対抗改革”と呼ばれる カトリック教会の組織を建て直し、プロテスタントの教勢拡大阻止が始められた時期であり、イエズス会はこの時期イグナチオらによって創設された。この対抗改革に伴い、主にプロテスタントに対する”異端審問所”が多く作られた時期でもある。
ザビエルが所属していた イエズス会は、教会内部の堕落(汚職、不正、霊的倦怠)を批判し、@ ローマ教皇に対する忠誠を誓い、カトリック信仰を堅持させることに成功した。 ただし このとき、伝統的にあった民衆信仰の
A ”マリア崇拝”を正式に教義として取り込んだ。 またイエズス会はルネサンス後期には、世界宣教のほかに、大学と高等教育機関の運営に積極的に取り組んだ。
(cf. ”教皇無謬”が教義として正式に宣言されたのは、もっと後の1870年、第1回バチカン公会議で)
フランシスコ・ザビエルは、ポルトガル王の要請により西インド植民地(インドのゴア)に赴いた。彼はマラッカで 日本人ヤジローと出会い、日本の文化に興味を覚え、1549年に来日し、2年間宣教活動をすることになる。
偶然、1549年8月15日、聖母マリア被昇天の祝日にイエズス会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した。
戦乱が続いて民衆が救いを求めていた日本では、もともと観音信仰が盛んであり、この”マリア信仰”は民衆の間にそのまま受け入れられ、イエズス会の布教当初はもちろん、後に宣教に加わったフランシスコ会も奨励し、さらに
迫害期、潜伏期、そして隠れキリシタンに至るまで、一貫してキリシタンの間で盛んだった。
後のマリア観音も、マリアを模したものでなく、既存の観音像をそのままマリアとして拝んだものだった。
このように、日本に伝来したキリシタン信仰は、初めから 純粋に聖書的な信仰では無かったのである。
また、イエズス会は、地域の支配者である大名に布教する戦略をとった。そうすれば領民も自然とキリシタンに改宗することになる。 1560年代に入ると、ポルトガルやスペインとの貿易による利益に着目する大名や、キリスト教の教えを封建体勢の強化につなげようとする大名も現れ、保護を受けたり、また大名自ら受洗する者も出てきた。教会、病院、神学校も建てられ、キリシタンは急速に増えていった。豊臣秀吉により、伴天連追放令が出される頃には、キリシタンは20万人以上にもなった。
一番最初に殉教した いわゆる”26聖人”は、イエズス会の慎重なやり方を無視して京都で布教を開始し秀吉を怒らせた、フランシスコ会士らである。
その後は、家康、秀忠らによって、”禁教令”が出され、ますますキリシタン迫害はその激しさを増していった。
→ 中世末期から近代のヨーロッパの不法(4) (外部リンク) キリシタン江戸初期の大迫害
「子どもたちよ。 偶像に警戒しなさい。」(Tヨハネ5:21) ・・・ カトリックの聖書の モーセの十戒の所で、偶像崇拝禁止の項目を削除している!!(「律法を変えようとする」(ダニエル7:25))
「 ・・・・ しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。 ・・・・・ 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな艱難の中に投げ込もう。 また、わたしは、この女の子どもたちをも 死病によって((直訳)死をもって、70人訳の 病気とは限らない)殺す。 こうして全教会は、わたしが人の思い(直訳:
腎臓= 「感情」の座) と心(心臓= 「知性」の座)を探る者であることを知るようになる。 ・・・・ 」(黙示録2:19−29)
「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。 天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ5:10−12)
禁教令直前には キリシタン 37万人、殉教者数は後の”崩れ”を除いて、記録にある実数だけで 4045人。記録に無いものも含めると、江戸時代のキリシタン 75万人中 30万人が殉教し、この人数は ローマに次いで 史上2位である。 殉教しなかった人は、ごく一部が国外追放され、他は”転んだ”か、”隠れ”になり、表立ってキリシタンを語る者は東北も含めて日本国内すべてに皆無となった。 他国の侵略と国内の反乱を恐れた江戸幕府は それほど、徹底的にキリシタンを迫害・撲滅したのである。 その様子はきわめて異常であり、霊的である。(忍者もキリシタン摘発に用いられた)
この異常な迫害は、第一に、「主の時」ではなかったことが挙げられるが、霊的姦淫に対して、特に仏教に関わって「反キリストの霊」が働いたと思われる。
霊的姦淫(=「主」以外のものを崇拝すること)に対する 「テアテラ教会」への取り扱いは、ローマがただひたすら殺戮したのに対し、日本は 拷問によって”転ばせる”ことを中心に行なった。 これは、信仰の純粋さを探るものだった。イエズス会、フランシスコ会士の多くの人も”転んで”、救いを失ってしまったのはまことに残念なことである。(”穴吊り”は猛烈な頭痛を引き起こすので特に効果的だった) 転んだ上、偶像に誓わされ
戒名を与えられ、生き恥をさらした者も多い。 ちょうど同時期、ヨーロッパでカトリックがプロテスタントに徹底的に異端審問したように、日本はキリシタンに対して拷問で転ばせようとしたのである。
しかしながら、試みに打ち勝ち、殉教を全うした人たちは、天において高い地位が与えられている。それどころか、イエス様ご自身や、終末のイスラエルにおける「初穂」の殉教者たちと同じく、「鉄の杖によって土の器を打ち砕くようにして治める」権限が与えられている。(黙示録2:27、12:5、19:15)
3. 戦前の ホーリネス・リバイバル:
日本の 聖霊刷新運動としては、戦前の ホーリネス・リバイバルが特筆すべき出来事である。
これは、中田重治(なかだ じゅうじ)という、強い個性を持った一人のカリスマ的な指導者( 注: ”賜物”のカリスマの意味ではない)によって起こされた運動で、ホーリネス教団は、昭和初期には日本基督教会、日本メソヂスト教会、日本組合基督教会、日本聖公会に次いで
第5位の信徒数を誇る教派にまで成長した。他のプロテスタントやカトリックなどのキリスト教が、旧士族・学生・知識人などの教養宗教・道徳宗教に限定されがちだった時代背景において、中・下層の勤労者層にも一定の信徒を獲得したことでも知られている。
19世紀後半アメリカで起こされたホーリネス運動には、「新生」「聖化」「神癒」「再臨」という「四重の福音」を掲げる一派があり、また、20世紀初頭の、いわゆる アズサリバイバルを体験した教職者も加わり、これが日本のホーリネス教会に移植された。
中田は、肉の力に限界を感じ、聖霊のバプテスマを求めるようになり、聖霊のバプテスマを受けて活躍していた伝道者ムーディを慕って渡米した。このアメリカ留学のムーディー聖書学院在学中に、聖化を求めて断食や 徹夜祈祷をしたが効果が無く、「キリスト者の完全」と「罪のない完全」の違いを知った上で、1897年11月22日、インド伝道者の集会で 聖霊に満たされ 聖化の体験をした。
ホーリネス教団の人数の増加は、大正期と 昭和期に分けられ、それぞれ”大正リバイバル”、”昭和リバイバル”と呼ばれる。
(1) 大正リバイバル: ・・・ 期待のリバイバル
大正時代は、急速なインフレ(7年の米騒動)や経済格差の拡大が進んだ時代である。大正8年には第一次大戦によるバブル景気は終焉し、戦時下の好景気から長期不況に転じた。 この年は、帝国主義政策に対抗する 中国・朝鮮半島での抗日・排日の運動(3・1運動(朝鮮)、5・4運動(中国)が起こり、翌9年には大規模なストライキが国内で起こり、5月1日には
最初のメーデーが上野公園で開かれた。(一般市民に政治的・市民的自由を自覚させた、大正デモクラシーの時代)
そして、大正12年には 関東大震災が起こり 首都は壊滅した。
この時期、人々の心の先行きの見えない不安感に乗じて、”世の立替え立直し”等を唱えた新興宗教(大本教)が成長した。
大正デモクラシーの波は、西欧文化とのつながりが密接なキリスト教界にも大きな影響を及ぼし、3大主流教派(日本基督教会(日基)、日本組合基督教会(組合)、日本メソヂスト教会(メソジスト))は積極的な連合を模索すると同時に、社会にたいして政治的な主張をアピールするようになる。
一方、中田は、教会人が世俗の政治問題などに関して発言することを嫌い、聖霊による一致と たましいの救いに専心すべきことを説いた。社会に流されることを避け、ひたすら神の再臨を待ち望むという内閉的な生き方の強調は、この教会の人々の内部に強い信仰のエネルギーを蓄積させ、リバイバルという爆発を導く大きな原動力のひとつになり積極的な伝道によって教会を成長させる力として働いた。そして、全国で会員数1500名足らずの教会は、このリバイバルを契機に活性化され、10年後には1万人以上の教派にまで成長したのである。
(2) 昭和のリバイバル: ・・・ 窮地のリバイバル
大正14年(1925年)4月11日の治安維持法、昭和3年の金融恐慌、4年(1929)10月よりの世界大恐慌、東北地方の凶作と農村疲弊、昭和5年3月には失業率が5%を越える、政界・官界・軍部の収賄汚職事件、など、出口の見えない長期的不況はさらに悪化した。また、共産党大検挙(昭和3年3月、4年4月)など、言論思想統制も厳しさを増していった。昭和6年(1931)には満洲事変が起こり、満洲国建国から五・一五事件(1932)、国際連盟脱退(1933)へと続いていく。
当時のキリスト教界をとりまく深刻な政治問題は、宗教法案(事実上の宗教統制法、仏教界やキリスト教界の猛反対にあって否決または廃案になってきた)の行方と、特に、いわゆる”神社問題”(方々で迫害が起こり、参拝しないクリスチャンが免職された)だった。
リバイバルが起こった年である昭和5年、ホーリネスでは 主の再臨という出来事によってしか完結しえないという教理のもとに、徹底した自我の否定が強調されていた。 「携挙」とは、再臨にあたってまず忠実な信徒だけが天に携え挙げられることをいうが、多くのキリスト教徒は聞いたこともないこの教理が、ホーリネス教会では日常の言葉として語られるようになる。
また、日本独自の教派を守るために、当初から確執のあった米国の東洋宣教会(OMS)からの援助を断り
それに伴う支配を受けないことを決定した。自給と福音使(牧師)の無給制とし、全国の各教会も完全な自給体制をとった。
中田は、信徒たちに積極的な大陸への移住と伝道をよびかけている。”政治に関与せず”という建前の裏で、本人の意図とは別に、国策追従の動きを行なっていた。
また、彼は、”イスラエル主義(=いわゆる、日ユ同祖論)”に深く傾倒し、これはユダヤ選民思想のように、日本人もまた”東の選民”であるとする国粋的な思想と合致するものであった。この
独特の”選民思想”こそ、昭和8年のホーリネス教会の分裂事件の主要因となった。(* 文化的には明らかにユダヤの影響を受けた日本ではあるが、現在のDNA解析により、ほとんどの日本人は人種的にはユダヤ人(南ユダ)ではないことが確認されている。北イスラエル(エフライム、マナセなど)については、DNAが明らかでないので未だ不明。)
20世紀初頭の米国西海岸のアズサ・リバイバルと違う点は、大正、昭和のどちらのリバイバルも、熟達した指導者による教化・誘導・暗示・祈りなどによって時間をかけて準備され、企画された大規模な聖会によって行なわれていたことである。また、中田重治の強い主導性にもかかわらず、彼の不在時に周囲の人物によって最初の火が起こされた点はアズサリバイバルと共通している。そしてこのリバイバルは、東京から地方へ飛び火する形で広がっていった。
昭和17年以降の国家によるホーリネスの弾圧では、多くの教職者が投獄され、獄死する者もいた。ホーリネスは 唯一、聖霊様によって 最後まで妥協することの無かった「勝利の教会」であった。 一方、他の教団は、聖霊によらず肉の力に依っていたので妥協してしまい、”これこそ神のみこころだ”として、日本基督教団として統合され、天皇崇拝を行い、朝鮮半島では
なんと牧師が民に”天皇崇拝”、”神社参拝”を強要する大きな罪を行なったのである。十字架を負わず、迫害を恐れて世と妥協的になると、「惑わしの霊」が働いて
ますます間違った確信に至るようになる。(歴代誌U 18:18−22) カトリックは、完全に”風見鶏”だった。
(戦後は日本基督教団から多くのプロテスタントの教派が分かれていった)
中田自身は、昭和天皇から観桜会(1936年4月)に招かれるほどの素朴な天皇敬愛者(崇拝者ではない)であり、第二次世界大戦開始間もなく1939年9月24日天に召された。
(ただし、この時期は 「主の再臨」の時ではなかった。第一次、第二次世界大戦 ・・・ 「戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。」(マタイ24:6))
→ 3.大戦の時代から戦後の経済進出まで (外部リンク) ホーリネス・リバイバルとは何だったのか (外部リンク) 中田重治 (外部リンク) ホーリネス弾圧事件
4. 日本人の罪の悔い改め:
20世紀最後の四半世紀には、聖霊体験を重視するキリスト教の大規模な台頭現象が、世界各地で注目されるようになった。
これは、1980年代以降に主としてアメリカからの影響で活発化した、”やや楽天的な聖霊運動(*)”であり、異言・預言・悪霊追い出し・神癒(いやし)を重視し、手を高く挙げて聖霊に満たされたと称する恍惚状態での礼拝や、リズミカルな歌や踊りによる熱狂的な賛美などがあげられる。(ペンテコステ派(チョーヨンギ師の純福音など)、カリスマ刷新運動、聖霊の第三の波など)
さらには、近年では,いわゆる福音派と称する人々の一部にも広義の聖霊派に共鳴し、ここに歩み寄ろうといった動きもみられる。(福音系の神学校でも、聖霊のバプテスマを体験する人たちが増えている)
(* ただし、確かに、「福音(=良い知らせ)」だから、当然 本質的に楽観的なのだが、世界中に、聖書を拡大解釈、あるいは逸脱した、自称使徒や にせ預言者も多く現れているので注意が必要である。 → 十字架信仰の力2013 )
「そうして、西のほうから、主の御名が、日の上るほう(=日本)からは、主の栄光(=聖霊の火と わざ)が恐れられる。 その中で主の息(=聖霊の火)が吹きまくっている。 「しかし、シオンには贖い主として来る。
ヤコブの中の そむきの罪を悔い改める者のところに来る。」」(イザヤ59:19−20)
(預言) 『100年後には、当時のリバイバルよりももっと大きなリバイバルが起こる』(アズサリバイバル、1906年にロサンゼルス・リトル東京のアズサ通りで起こった 1909−1910年の預言)
・・・・・ ここからペンテコステ運動、カリスマ運動(カトリック)に飛び火していったので、強いリバイバル中に語られたので、主からの預言である可能性が高い。おおよそ100年後という意味である。
また、”預言的絵”(2003年、キャロル・ホール師)から、日本中各地から ほとんど同時に聖霊様が流れる。(福岡や東京の東のほうからも ・・・ ドクター金山師の見解。 絵は割合正確に描かれている: 十字架のところに宮城県(地震)、イエス様の足に 立山の強い者の縛り、 愛知県から紀伊半島にかけての聖霊の強い流れ(伊勢などの日本の強い者の縛り))
( → 日本の大リバイバルの預言集の上のほう)
個人的な家系の罪ののろいは、3代、4代までに限定されている。(出エジプト記20:5−6) しかし、日本のリバイバルを望むならば、罪の性質は継続して代々遺伝されているので、かなり昔の日本人の罪も悔い改めて、とりなしていく必要がある。(* 罪の悔い改めと リバイバルとの関連性は、しるしとして”金粉の奇跡”でも示された。)
不信仰・偶像崇拝や霊的姦淫の数々の罪に加えて、上記のキリシタン大迫害、福音派牧師の妥協、大陸・半島での罪、アイヌ人に対する罪、また宣戦布告時
よりによって礼拝日の日曜日に真珠湾を奇襲したことなどから、日本人の「反キリスト的な罪」が どのようにすさまじいものであったかが良く分かる。
しかし現在は、預言者イザヤによって語られている終末の大リバイバルの時、欧米のキリスト教界の不振に対して、逆に、日本にとって まさに「主の時」である。 主は、この、まさかの日本で、大リバイバルを起こそうとしておられる。「聖霊の火」が日本を焼き尽くすことになる。また、主を恐れる民には「救い」がもたらされる。(「罪の満ちるところ、恵みも満ちる」)
また同時進行的に、この 東のはずれの国=日本から、世界中に、特にイスラエルに向かって、聖霊様の火と共に福音が宣べ伝えられるのである。 このように、日本人クリスチャンは隠れた「特殊部隊」である。(「自然啓示」からも、最終的なあかしがなされるだろう)
日本のほとんどの福音派教会の教理が、正典聖書に基づく、聖霊様による 具体的な
御霊の賜物と、しるしと不思議を含まないもの、あるいは、否定するもの だったことが、日本の福音宣教を妨げてきた第1の要因と考えられる。(・・・ 「主(=この場合、聖霊様)と共に集めない者は、散らす者。・・(後の世でも)聖霊を汚す罪は赦されない。」(マタイ12:30−32))
そして、カリスマの教理に基づく、聖霊様と共に伝道する、「力の伝道」こそが、日本をリバイバルに導く最も重要なポイントとなる。 今後、さらに(霊的に)日本を揺り動かすために、特に「死人のよみがえり」( → ガジマ師聖会のあかし)と
「預言」が、「いやし・解放」と共に用いられていく。
また、(聖徳太子時代は分からないが、)すべてのリバイバルの中で、聖霊様が著しく働かれる「収穫の時」である、実質的なリバイバルの期間は、意外と短い。(キリシタン・リバイバル: 20〜30年、 ホーリネス・リバイバル: 数年〜10年、 アズサ・リバイバル: 4−5年、 ローマ時代の大リバイバル(「初めの雨」): ペンテコステからペテロ、パウロの殉教まで30年) リバイバルの後は「迫害」である。
だから、「収穫」の備えと同時に、福音書に書かれているような 終末時代への備えを祈っていかなければならない。 特別に殉教に定められている人は殉教のために祈り(瞬時に天に携え上げられるように
等)、そうでない多くの人は 逃れるように祈るべきことが書かれてある。
「この御国の福音は 全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(マタイ24:14)
「あなたがたの逃げるのが、(霊的な)冬や 安息日にならないように祈りなさい。」(マタイ24:20)
「あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことから逃れ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せず(=(霊的に)眠らないで)祈っていなさい。」(ルカ21:36)
「(男の子を産んだ)女(=イスラエル)は荒野へ逃げた。 そこには、千二百六十日(=約3年半)の間
彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。」(黙示録12:6)
”艱難期前携挙説”は、聖書による論拠が甚だあいまいで、福音書にあるように 終末への備えを祈っていく必要がある。(* そのために
主は、この教理をあいまいにされたと思われる。)
もちろん、主の再臨がいつ来られても良いように備えておくことは大切である。 使徒行伝時代の聖徒たちも、主はすぐにでも再臨されると信じていた。実際はその後約2000年の一大周期を経てからのことである。(by.全歴史7000年説、(下図↓)) 現在は、もう 待った無しである。
● ヨハネの黙示録の概要(1. 2. 3. 4. 5. 6. 7.)、 ● 地層年代とノアの洪水